地域のくらしを守り、都市近郊農業をめざす 各務用水土地改良区(かがみようすい・とちかいりょうく)
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理事長から皆様へ

ご 挨 拶



 令和4年7月、図らずも第1回理事会が開催され、不肖私が理事長に選任され、各務用水土地改良区の運営をご一任頂き、先にもごあいさつ申し上げましたが改めて責務の重大さを認識致しまして、前理事長小林ひろし氏並びに役員各位が進めて来られました諸事業を継承しながら、時々刻々変化する自然が相手の農業と土地改良区を取り巻く情勢は侮ることのないよう十分な監視が必要であると考えております。

 さて、当土地改良区の前身は資料によりますと、明治時代までさかのぼり明治5年頃大宮村(現各務原大島町)の村長をしていた横山忠三郎氏が村の農民が、毎年、水不足のためとても苦しみ、水田に水を引くための疲労で大きな病に罹って苦しんでいるところを観て、何とか「日照りが続いても、安心して米づくりが出来るようにするには、用水路を作ることである」と考え、山県郡の岡田只治氏や武儀郡の後藤小平治氏等に相談して計画を進めたそうですが、話が進むにつれ、嫌がらせや反対運動などにも遭いながら根気強く計画を進めました。岡田只治氏の調査で明治19年に20キロメートルと400町歩の受益面積を有するこの用水路建設の計画図面を当時の小﨑県知事に提出して説得に成功、県の応援を受けて工事が着手され、横山村長などの努力で、反対運動もなくなり工事が進みました。しかしながら当時はブルドーザーやクレーンやトラック等の機械や材料のセメントもない頃でしたので、工事には大変な苦労があったそうです。それに、今までやったことのない大仕事で、失敗や間違いも沢山ありました。明治23年には用水路が出来上がったので、水を通しましたが、前の夜から降った雨のため、水を含んで弱くなっていた堤が、壊れてしまいました。それは丁度田植えの時でしたので、水が来るのを待っていた農家の人々は、困ってしまいました。
 そこで、責任者だった忠三郎氏が中心になって、みんなで力を合わせて、壊れたところを直しました。やっと、水が通ったのは、1か月後でした。いろいろ苦心した用水路は、明治23年に完成しました。ところが、その年から、大雨や大地震が次から次へとおこり、用水路が壊れてしまいました。
 特に明治24年の濃尾大地震は用水路の殆どが壊れてしまい、壊れたところが余りにもたくさん有ったため、とても自分たちの力だけでは治すことが出来ませんでした。
 そこで、忠三郎氏たちは、県や国に、用水路の修理のお金を出してほしいと願い出て、その修理に11年もかかり、出来上がったのは明治34年でした。用水路づくりを言い出してから、21年もかかった大工事だったのです。
 この様に、横山忠三郎氏をはじめ明治時代の先人たちが、日照りが続いても、安心して米づくりが出来る用水路の必要性を説いて始まった各務用水路は、清流母なる川「長良川の水」を関市小瀬地内の長良川左岸より毎秒5.83トンを取水し幹線水路19.46km、支線水路5・3km(7 路線〉により地区末端まで面積は約540ha灌漑している。当地区の土壌は上流より砂壌土、腐食性黒ボク埴壌土により構成され、気候においては、灌漑期間中の平均気温は24.7℃、降水量1,000mmである。当土地改良区は戦後の昭和27年8月に農地改良法により設立・認可され70年歴史を刻んで参りました。
 この度、理事長という大役をお受けするにあたり、当土地改良区の歴史をかえりみまして、平成15年にはこの長良川が「世界農業遺産」に認定され、改めてこの清流長良川の水が各務用水路の隅々まで行きわたり、土地改良区の目的である、農業生産の基盤の整備を図り、農業の生産性の向上、農業総生産の増大、農業生産の選択的拡大及び農業構造の改善に資することを目指し、地域への貢献に努力していかねばならないと考えております。

各務用水土地改良区
理事長 玉田 和浩



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